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広島簡易裁判所 昭和33年(ろ)40号 判決

被告人 新崎峨

大一一・一・三生 自動車運転者

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は、被告人は自動車運転者であるが、昭和三十二年九月二十一日午後五時十分頃自己の運転する小型自動四輪車広五す三一号(以下本件自動車という)を広島市立町五五番地中国電気工事株式会社前車道上に歩道に寄せて西方に向け駐車し、運転台より下車しようとしたが、同所附近はいわゆる八丁堀筋電車通りで市内交通の極めて頻繁な所であるから、かゝる場合自動車運転者たる被告人としては後方より他の諸車が自己の自動車の側方に接近して来るかも知れないことを予想し、かつ車内後射鏡のみを見ることによつては車体右後方死角線内を進行して来る諸車の姿が映らない場合があるのを考慮に入れ、座席或は体位を移動する等万全の措置を講じて後方よりの交通状況を注視し、その安全を確認した上徐々に扉を開けて下車し、もつてにわかに開扉することにより後方より諸車を操縦して来る者をしてこれに衝突させる等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにかゝわらず、不注意にもこれを怠り、単に車内後射鏡を見たのみで、偶々前記死角線内を疾走してきた仲村志郎当二十三年の操縦する自転車を発見することができず、後方より接近する諸車はないものと軽信し、漫然運転台右側の扉を三十センチメートル余り開扉した過失のため、その場にさしかゝつた前記仲村をして同人の左肩および自転車の左ハンドルを右の開扉した扉の後端部に激突顛倒せしめ、よつて同人に加療二ヶ月を要する左鎖骨複雑骨打の傷害を与えたものであるというにある。よつてこれを按ずるに

(一)  被告人は前記場所に停車中の本件自動車運転台右側(運転者席は右側にある)の扉を開いて下車しようとしたが、下車に先立ち後続車の状況その他の危険の有無を車内運転台に装置の後射鏡により、車台後方中央部の窓を通じてこれを確めたが、格別の危険のある後続車はこれを発見することができず、又運転者の座席の転位或は体位の移動によつても右死角線内の後続車を全部確認できないことは、当裁判所検証調書によつてこれを認めることができる。尤もかゝる場合車台フエンダー前部両側上に別の後射鏡が装置してあれば、これを運転台内部の後射鏡と相まつて運転者席に着いたまゝで後続車の状況はこれを確認できたであらうが、本件自動車には右のようなフエンダー上に後射鏡がなかつたことは右検証調書および証人大野実義の証言によつて明かである。このような場合、万全の措置としては、あえて右側より下車することなく、左側助手席の扉を開いて下車するを適当とするが、被告人の供述(第二回および第五回公判期日)によれば、たまたま当時本件自動車助手席には荷物が登載してあり、又左側扉の外部にはこれに接近して街路樹があつたので、直ちに助手席側より下車できず、又仮に荷物を後方座席に移動しても街路樹の障害のためこれを開扉して下車することは困難な状況にあつたので、被告人は交通の状況上危険の有無を確め、危険なきにおいては右側より下車しようと意図し、そのために右側扉を約三〇センチメートル程度開き、前記死角線内を進行し来る後続車の有無およびその状況を確めんとしたものである。すなわち被告人は下車せんとして漫然開扉したものでなく、相当の注意力を以て危険の状況を確めるため僅に三〇センチメートル程度開扉したものであることは、被告人の右の供述によつてこれを認めることができる。

(二)  本件事故発生の現場は広島市内における最も交通頻繁な場所であるが、本件事故発生前後若干の時間は、事故現場より東方最近の福屋百貨店西側の交通信号が東西に通行停止となつた後であつて、諸車の東西の流動は当時たまたま極めて閑散の時間であつたことは証人(被害者)仲村志郎の証言および被告人がこの交通閑散時を利用して大東京火災海上保険株式会社広島支店前丁字路より本件現場の道路に進入したという供述によつてこれを認めることができる。加うるに本件現場の道路は幅員四〇メートルを有する一級国道二号線でその車道の幅員は二八メートルあり、その中央部に幅六メートルの電車軌道敷外があるが右電車軌道敷側端より歩道までの幅員は一一メートルあり、この幅員を以てしても大型自動車四輛が併行して走行できる程度のものであることは前記検証調書によつて明かである。而して道路がこの程度の幅員を有し、かつ当時の交通状況が前記の如く閑散な際においては、歩道に接着して停車中の本件自動車の右側扉を約三〇センチメートル程度開いて、後方死角線内の安全状況を確めんとすることは、これを以て直ちに危険なる所為と目することはできないのみならず、本件については当時の事情上むしろやむを得ない措置であつたことは、証人立花馨の証言中扉を細目にあけて後方死角線内の危険の有無を確めることは不当ではないとの趣旨の証言によつてもこれを認めることができる。すなわち本件について被告人に対し注意義務の懈怠を責むべきものでないと判断せられる。

(三)  公訴事実によれば被告人は本件自動車の右側扉を三〇センチメートル余開いたとせられるが、弁護人提出にかゝる証拠写真(請求番号第一〇号および同第一一号)によれば、被害者の自転車ハンドルの中心部とその左端との長さは二一センチメートルであるから、仮に被害者が証人としての証言の如く本件自動車との間に約一メートルの間隔をおいて走行したものとすれば被告人が三〇センチメートル余開扉しても、なお四九センチメートル近くの余猶があり、衝突事故を惹起するはずがない。なお証人野田徳三、および同大野実義の証言によれば、この種の自動車はその構造上扉と車体との接着部すなわちいわゆる蝶番部が脆弱で、他の同種事故の場合の例に徴するも、扉を大きく開いた際、これに物体が衝突するにおいては、扉は逆方向に反転し、ためにいわゆる蝶番部を容易に破損するものであるが、本件自動車についてその破損状況を見るに、証人野田徳三および同立花馨の証言によればいわゆる蝶番部には著しき破損を発見することができない、又この程度の衝突にて被害者が治療二ヶ月の重傷を負つたことは、被告人が約三〇センチメートル開いた扉面とほゞ同方向に近い角度からこれに衝突したゝめ、扉が反転して緩衝的機能を果すに由なく、ために右の如き重傷に至らしめたものであることはこれを経験則に照して認めることができる。右の事実は被害者が本件自動車と一メートルよりはるかに近い間隔をおいて疾走したものと認めるべく、すなわち本件事故の発生は殆んど不可抗力に近いものと判断することができる。

以上の事実によつて総合判断するに、右の如き事情の下において被告人に対して本件事故発生当時被告人の払つた注意義務以上のものを期待することは酷に失するというべくこれを以て被告人に対し過失の責を問うことは妥当でないと認められる。仍て刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし主文のとおり判決する。

(裁判官 秋元勇一郎)

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